「主に問いながら」  03−03−16
            ルカ7:18〜30

 揺るがない信仰をもって生きたいと願いながらも、この世の
生活の中では、様々な出来事に揺り動かされ、不安を感じることが
あります。ふがいない自分に出会うこと度々
(たびたび)です。

 その時、洗礼者ヨハネも揺れ動いていたようです。領主ヘロデの
悪によって牢屋に入れられ、自由を奪われていました。
とても困難な状況にいた彼は、使いの者を送って、主に「あなたが
救い主ですか」と問いかけます。彼は、困難な揺れ動く状況だから
こそ、何としてでも主に問いたいと願ったのです。

 ふがいない私たちは揺れ動きます。しかし、その時にどうするのか
が重要です。「何としてでも主に問いかけたい」という姿を持って
いたいのです。開き直ることも、投げやりになることも、つぶやく
ことも、揺れを支えたりおさめたりはしません。
 私たちの味わう様々な揺れを、本当に支えるのは主
(しゅイエス)しか
居られないからです。創世記に登場するヤコブは、初めは自分の
知恵や作戦によって、不安を解消しようとしました。
 しかし、不安はなくならないのです。ヤコブの揺れ動く心を静めた
のは、神との取っ組み合いの格闘によってでした。
 ヨハネの問いかけ、ヤコブの格闘は、「私たちを本当の意味で
支えるのは、神さまだ。」と気付かせてくれます。

 主は、ヨハネのことを「風にそよぐ葦」とみなしてはおられません。
ヨハネ自身は揺れていますが、主はそう見なされはしないのです。
主に問いかけ続ける者を、主ご自身がしっかり支えておられるから
です。主は旧約の預言者イザヤが預言したとおり、傷ついた葦を
折ることなく、消えそうな灯心を消さない方です(イザヤ42:3)。
 折らず、消さないどころか、支え、確かにしてくださる方です。
 その支え手である主は、ヨハネのことを風にそよぐ葦のような者
ではなく、困難な状況の中にあっても揺らがない確かな大木の
ような者としてご覧になってくださるのです。
 
私たちは、そんな主に問いかけながら、そしてしっかり支えられ
ながら地上の歩みを進めています。